屍鬼〈下〉/小野不由美

屍鬼〈下〉

屍鬼〈下〉

確か前に読んだときは夏野とか徹ちゃんとかあとはかおりとかに涙した気がするんだけど、今回はもう断然敏夫ですね。大人になってしまった…。衝撃を隠しえない…。
敏夫が千鶴に対して殊勝な態度を取ったあたりで騙されそうになった程度には結末を覚えていませんでした!うっかり涙腺が刺激されたのに。なんという。
 
読んでる途中から『兄と弟』について、読み解こうと唸ってたので、読み終わって考えたままもめ。ネタばれですよー。
 
 
 

  • 秩序の仕組みを理解し秩序を憎むから秩序に受け入れられる『弟』、秩序に受け入れられようと真摯になればなるほど噛み合わず秩序の中には入れない『兄』、実は兄は弟だった。ですよねまず整理。
  • 絶望で楽園を追放されるに至った『兄』ですが、同時に『弟』であったということは、つまり『彼』は、秩序には受け入れられてたの?られてなかったの?というところを悩んだけど、理解し憎んでいる分には受け入れられていたけど、憎んだりなどせず心から愛そうとすると拒絶される、とゆーことかなあ…。
  • 単純に、例えば『静信=兄』のような図式に落とし込めるのだろうかと考えてしまうのだけど、登場人物対比させるとその関係性で立場変わってしまうと思うんだよな。例えば父と静信で、父が静信という息子を媒介にしていたとも言える、みたいな。どうなのだろう。
  • それにしても静信まじわかりづらいよ…最後にちょっと自分を悟ってしまった敏夫はわかりやすいいい子だよ…。まあそれが『秩序』に愛されるということなのでしょう。なぜか秩序を乱してしまう。理由は誰にもわからないし彼は秩序に愛されようとあがいていたがそれ故に愛されない。イコール兄ではなくても兄の苦しみは静信の苦しみがおそらく反映されている。
  • 『弟』が弟として楽園に存在したのは『兄』が存在するからであり、秩序に真摯であるがゆえに愛されない兄の媒介になるという点を除けば弟は『隣人』のなかの一人でしかない可能性もある、と思ったんだけど、いうことは静信はイコール兄という単純な落とし込みでいいのかな。静信は『兄』足りうると思うけど、唯一無二の『兄』として楽園に存在するほどの異端か?と考えると、誰もが兄足りうると思えてしまうんだ。静信がそこまで絶望していた、たまたま静信だっただけで他の誰かでもありえた、という認識はありだろうか。
  • 『楽園』で真実の信仰を抱いているがゆえの絶望、っつーと「自分が生きるためには仕方ない」などと割り切れてはだめなのだな。割り切りれるということはつまり「秩序におもねって生きている」、『兄』から見た「秩序から愛されている」ということだから。ということは静信か…。…と考えたところでいま夏野って単語が降ってきた。わーんむずかしい!夏野も「自分が生きるためでも他者を害することは出来ない」と投げた人間だからね。
  • そうか、静信が兄であると落としこめるのはともかく、静信の「寺の若御院」としての生活は弟でもあるんじゃないの、って思ってたんだけど静信が『兄』であるならば『弟』足りうるのは当然だった。兄は弟である、そういうオチだった。
  • 『兄』が、静信以外の登場人物にあてはまるのでは?という疑問も、作中/作中作を神(世界の外側=作者(小野不由美)とか読者とか)目線で考えるからであって、静信の作品(現実=外場/作中=楽園)と考えれば、静信以外にいるかもしれないけど静信からはわからんよな。静信の世界では、自分は異端者であり『弟』を通さないと秩序に受け入れられなかったのだ。

 
もめここまで。
秩序に受け入れられるための媒介であり、秩序を憎むがゆえに秩序に受け入れられていた存在を、殺して『楽園』を追い出された。楽園は村、流刑地は地上、弟は村人たちと若御院としての自分、と読むのがやっぱり一般的なのだろうな。自分を殺して人狼になったわけだからね。
静信を「理解できない部分を内包している」ことを理解してくれていた敏夫ですら静信の人生(兄の孤独と弟殺しによる楽園追放)には関われなかった、という結論は、まあ作中作の屍鬼を読み解かず沙子との問答を除いてもその通りの経過であり結果でしかないんだけど、それでも、敏夫でも誰でも『兄と隣人』の関係ではないものを築いていた、兄=静信ではないと思える何かがないだろうか、とうろうろ回り道したのだけど結局兄は静信だとしか読めなかった、ということです。